自分の基準点をどこに置くかを探してみる。

福山市 scale 考えたこと

人それぞれ世界を判断する基準が違っていて面白いと思います。

自分の基準となる作品だったり、方法だったり

ふと自分の判断の基準になる考え方のベースはどこに置くのがいいか、ということを考えました。

会社に社則があるように、人は意識しているか、していないかにかかわらず「基準」を持っているように思います。

ノエル・ギャラガーがオアシスのデビューアルバム「Definitely Maybe」を基準にしていたのはSex Pistolsの「Never Mind The Bollocks」を聴きまくっていたとか。

「Definitely Maybe」をレコーディングしてる時は、あのアルバムをノンストップで聴いてたよ、当時の俺達にとっては、全ての音楽をはかる基準だったんだ。それとThe Whoの「Live At Leeds」もね。強烈な何かが迫ってこないレコードは全てゴミだ。

村上春樹さんが基準に置いているのは「走りごこち」だったり。

ある種の人々が知らない土地に行くと必ず大衆酒場に行くように、またある種の人々が知らない土地に行くと必ず女と寝るように、僕は知らない土地に行くと必ず走る。「走りごこち」という基準によって、はじめて理解できるものも世の中にはあるのだ。

『遠い太鼓』

ぼくはブログを書いたり、発信をするときには自分が楽しめるものを書くということをひとつの基準にしています。

あとは若いときからビートルズを聴きまくってきたので、彼らの作品はなにか考えるときの「基準」になっていると思います。

まとめ

ネットが普及して現代人の接する情報量は何百倍にもなったそうです。それだけの情報を全部真面目に聞いていたらあっという間に疲れてしまうでしょう。

基準というのは世界との距離感と言えるかもしれません。