時代を経て現代に生き残っているものがなぜ「残っているのか」を考えることが好きです。それは自分の人生の生きる意味を考えることなのかもしれません。
時代を経たものに感じる価値
ぼくは割と古いものが好きで、最近はアナログレコードにハマっています。
古いものというと言い方が悪いですが、時代を経たものが好きということです。
村上春樹の『ノルウェイの森』の中で、「グレート・ギャッツビー」について話をする部分があって、そこがすごく好きなんですが、その中で時代を経ていない本は読まないという部分があります。
十八歳の年の僕にとって最高の書物はジョン・アップダイクの「ケンタウロス」だったが何度か読みかえすうちにそれは少しずつ最初の輝きを失って、フィッツジェラルドの「グレート・ギャツビイ」にベスト・ワンの地位をゆずりわたすことになった。そして「グレート・ギャツビィ」はその後ずっと僕にとっては最高の小説でありつづけた。
そう、現在進行形で生み出されるものはもちろん素晴らしいものです。
アーティストが人生をかけて生み出した作品をリアルタイムで追いかけることは「いま」を生きる私たちの特権でもあります。
しかし、それと同じくらい時代を経たものに「輝き」を感じてしまうのです。
どの分野でも「古典」として残っているものは、評価が高いもの、価値が認められたものです。
忘れ去られた作品というのはたくさんあります。
どうしてこの作品が残ったのだろうと考えることは、私の楽しみのひとつです。
人類の歴史を考えたら、書物としては紀元前からもものも残っています。
写真もインターネットも残っていない時代に、数千年のときを超えていまを生きる我々のもとに届いているのですから、その作品の持つ「力」を感じざるをえません。
ぼくがよく聴いているロックは分野としては比較的若い分野ですが、それだけに入れ替わりも激しいです。
若者を中心に流行ったジャンルのアーティストがいまも聴かれているのはすごいことだと思います。
ローリング・ストーンズなどいまだに現役のバンドもあるくらいなので、現在進行形の魅力と古典としての価値が両立しているイメージでしょうか。
まとめ
年を取り、肉体は衰えても魂は古くならないと思っています。
人は自分にその意志がある限り、終生にわたり学び続けることができます。
そのときに一緒に伴奏してくれるパートナーが「古典」なのだと思います。
さあ、明日はどんな作品と出会うことができるでしょうか。
photo credit: Barka Fabianova Startijenn via photopin (license)