日本史上有名な清須会議に関する本を読みました。
その名も『清須会議』。著者は柴裕之さんです。前後の歴史の流れもわかるとてもいい本です。
清須会議の本を読みました
今回紹介するのは、柴裕之さん著『清須会議』です。
清須会議といえば、三谷幸喜さんの映画「清須会議」にも取り上げられるほどで、日本史上の「会議」では一番有名なものかもしれません。
本能寺の変で織田信長がなくなったあとに天下の行方を羽柴秀吉と柴田勝家が争ったということはよく知られています。
この本では清須会議の前後の状況を含めてどのようにして会議が展開されて、その後の歴史にどういう影響を与えたのかわかりやすく解説してあります。
この本は「実像に迫る」というシリーズでいろいろな武将の知られざる側面を読むことができるので大好きです。

本能寺跡(現在の本能寺は別の場所に再建)
なぜ清須で会議が行われたのか
では、なぜ織田信長、当主信忠がなくなったあと、会議が清須で行われたのでしょうか。
それは信忠嫡男、三法師(信長の孫、のちの織田秀信)が清須にいたからです。
三法師は本能寺の変当時岐阜城にいたのですが、変の混乱を避けるため清須に避難していました。
そのため織田家の重臣たちが清須に集まり、天下の政治を運営する方法、織田家の行く末を決定する会議が行われたということなのです。
1582年(後半) <西国> 中国大返しと山崎の戦い|戦国時代勢力図と各大名の動向ブログ

山崎の合戦が行われた天王山からの眺め
清須会議のイメージ
三谷幸喜さんの映画「清須会議」でも映画のメインになったのは、信長の息子、信雄と信孝が家督を争ったというストーリーです。
信雄についたのが羽柴秀吉、信孝についたのが柴田勝家です。
そして最終的には、天下に野心のある秀吉が信長の孫、三法師を担ぎ出し主導権を握ったという話はよく知られています。
しかし、実際の会議はこれとは違った展開を見せた模様です。
そもそも織田家家督は信長から信忠のときのように嫡男が継承するコンセンサスがあって、三法師が家督を継承することにどの武将も異論はありませんでした。
会議には信雄、信孝は出席せず、秀吉、勝家、池田恒興、丹羽長秀、の出した結論を承認しています。
問題になったのはどちらが三法師の後見役(名代)をつとめるかです。
当時は中央政権の役割を持っていた織田政権は、会議出席のメンバーと三法師の傅役堀秀政が意思決定し、一門衆(親類)の信雄、信孝、そして親類の徳川家康が支える、「清須会議体制」が成立します。
秀吉の天下はここから始まる?
ぼくたち現代の人間はどうしても秀吉が織田政権内の主導権争いに勝利し、のちに豊臣秀吉となったことを知っています。
そのため秀吉の勝利から逆算して歴史を見がちです。
しかし、秀吉も内心はともかく当初は織田政権内で立場を優位にすることに専念しています。
その秀吉の行動の結果、織田家内で対立が起こります。
その結果として賤ヶ岳の戦いが起こり、清須会議体制は崩壊し、織田政権は織田信雄を秀吉のみが支える形になりました。

清須会議のその後
秀吉は次第に織田家からの独立を志向するようになり、小牧・長久手の戦いを経て関白に任官し「豊臣秀吉」となり、天下を統一します。
この歴史の結果の裏には清須会議から始まる政治的、軍事的な駆け引きがあり秀吉といえども一筋縄ではいかなかった印象です。
秀吉も最終的には天下を意識していたと思いますが、当時はもちろん結果を知りません。
自分の立場を優位にするため、現実的な判断、駆け引きをしていった結果が歴史になったのではないかと思います。
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まとめ
関係図や写真も多く、清須会議前後の時代の流れがよくわkるとてもいい本だと思います。
このシリーズ、基本となる事実をきちんと押さえながら貴重な資料をふまえ歴史の実像に迫ることができるのでいつも面白く読んでいます。
本能寺変後の歴史の流れを知りたい方はぜひ読んでみてください。