徳川秀忠が天下分け目の関ヶ原の合戦に遅参したということはよく知られたエピソードです。
最近読んだ本にそのことについて書いてある部分を見つけたので記事にしました。
徳川秀忠の関ヶ原の合戦遅参
江戸幕府の二代将軍徳川秀忠のエピソードでよく知られ、かつ本人もかなり気にしていたのは“関ヶ原の合戦”における遅参です。
信濃上田城で真田昌幸の策略にはまり、また川の増水などで関ヶ原の合戦本戦に間に合わなかったという戦国史における有名なエピソードです。
家康は到着した秀忠に対して、怒りのあまりすぐに会わなかったという逸話とともによく知られています。

最近読んだ吉川弘文館の『徳川秀忠』で面白い記述を見つけました。
『慶長年中卜斎記』と言う資料には、
合戦に勝ち候、万一負け候ハゞ弔合戦すべしと人数を揃へ上て能く候ハんに、道を急ぎ候迚まはらに上られ候と御機嫌あしく、
という記述があるようなのです。
簡単に訳すと、「合戦に勝ったからよかったが万一負けていたら弔い合戦をしなければいけない。それを急ぐあまり少人数で来るとはいかなることか」といったところでしょうか。
実は秀忠は家康からの書状で情勢の変化を知り、焦るあまり行軍を急ぎ、それでも間に合わないと知ると身の回りの人数だけで合戦の行われた美濃方面に急行したというのです。
家康が合戦に敗れていれば、落ち武者狩りや敵方の掃討の網にかかるかもしれず、家康・秀忠の2人とも討たれる事態になれば徳川家は総崩れになる。
家康はそのことを怒ったというのです。
また、秀忠軍の目標は当初から信濃方面の攻略であり、上方へ移動することは想定されていなかったという考え方もあります。
東大史料編纂所の山本博文さんの最後の著作となった『徳川秀忠』を借りてきた。
— つぶあん@つぶログ書店福山 (@ttsubuan) April 5, 2020
この辺りの江戸幕府初期の動向というのは興味を持っているので、じっくり読もう。#徳川秀忠@yk_sales pic.twitter.com/aA3UKmrksp
まとめ
今回紹介した史料が当時の事実をそのまま記しているかはわかりませんが、秀忠自身は関ヶ原の合戦の遅参を気にして、大坂の陣では行軍を急ぎ家康から注意されています。
真偽はともかく、戦国武将の人間味を感じるエピソードは面白いですね。
天下分け目の真相:『関ヶ原合戦と大坂の陣』 | つぶログ書店