歴史が好きなので、歴史をもとに考え事をすることが多いです。
江戸時代にあった藩は現代にもその意識が残っているような気がしています。
藩の範囲で文化圏が違う
広島県福山市を拠点に活動しているブロガーのつぶあんです。
広島県は江戸時代までは安芸国と備後国に分かれていました。
治めていたのはそれぞれ広島藩と福山藩です。(正確には備後は豊後中津藩領、広島藩支藩三次藩がありました)
藩は大名に治められていた独立した「地方自治体」のようなもの。それぞれが独立採算制で経営され、江戸幕府に仕えていました。
広島県は広島市と福山市が大きな都市ですが、文化圏が違うとよく言われます。
広島都市圏の地域は江戸時代広島藩が治めていた範囲。
備後都市圏は福山藩を中心とするさまざまな形態がありました。
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— レクトン、@3/3 七森中あにば~さり~ (@akncny) May 20, 2018
現代でも意識の違いが残っている

江戸時代の常識は現代には残っていませんが、その土地土地で住んでいる人の意識に残っているような気がしています。
江戸時代は300藩と呼ばれるようにたくさんの藩がありましたが、1万石という最小の大名から現在の県を超える範囲を治めていた大大名までいます。
よく知られているように最大の大名は加賀百万石の前田家です。
ひとつの大名家によって治められていた県はゆるく一体感があるという感じがします。
反対にたくさんの大名に分割して治められていた県はそれぞれ独立した基質があるような気がします。
それもそのはず。藩は経済的なつながりなどは別にして、お互いの政治には干渉しないからです。
つまりたくさんの藩があった県はそれだけ「国」があったようなものなので一体感が生まれにくい構造になっていると言えます。
まとめ
交通網が発達して行き来がしやすくなった現代でも距離があると気持ちの面でも意識が違います。
地域的なつながりを作っていくときにひとつのどこまでを一つのまとまりにするかということを考える参考になるかもしれません。